Seoul Music
古いコリアの暮らしの一例
女の子は写真を撮らせてくれなかった。
東大門(ドンデムン)
金浦(キンポ)空港
純白のバジ・チョゴリ、黒のカツをかぶり、
つえをついた老人
タクシーの運転手は
ムリヤリ女を紹介してくれる。
ハイウェイは滑走路
明洞(ミョンドン)通りネオンはない
トーチカの前で自動小銃を抱えた警官がいる
国の花はムクゲ
夜中の12時から4時までは外出禁止
ハイカラな明洞(ミョンドン)娘
釜山(ブサン)から対島が見える
乗用車の制限速度は60キロ
夜間の道路上での駐車は駐車灯を点灯すること
月に一度防空訓練
東京ー京城(ソウル)間は約2時間
46才から上の人は日本語がしゃべれる
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1.時代的背景について
- 教授がこの曲を作ったのは確か80年か81年頃ソウルを訪問してからだと聞いてますが、この時期は日本から独立した後の韓国近代史において最も暗い時代だったと言える時期です。まず私がこういう話をしていられるのも時代が変りつつあるからです。
- 軍事クーデタによって作られた政権が20年間続いて、それをまた軍事クーデタでひっくり返して戒厳令が発表されて国家の全権を軍部が持ってる時期だったのです。同じ国家の中で同じ国民を軍人が虐殺までしていた時期でした。軍人による政治はその後も続いて軍人以外の人が大統領になったのは93年になってからでした。
- 事実韓国は今も北朝鮮と休戦関係であって、完全に戦争が終わったわけではないので元々ちょっとした緊張感というかそういうのを持っている国だったんですが、この時の韓国はそのなかでも特別険悪な時代でした。
- もし当時教授が韓国人で、韓国でこういう曲を発表しようとしたら、次の日黒い眼鏡をかけた人達が教授をどっかへ連れて行って、それから誰も教授と会う事が出来なかった、なんて状況が演出されたかも知れません。^^;。(これは半分マジです。)。言論も人々も何もかも軍隊によって統裁されて時期ですからね。
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